子供の頃、私には「欠席する」という概念がありませんでした。どんなに体調が悪くとも学校や塾を欠席することはありませんでした。さすがに風疹で出席禁止になった時には休まざるを得ませんでしたが。苛烈ないじめを受けていた野球チームの練習にももちろん欠席したことはありませんでした。別に「がんばり屋」だったとか「努力家」だったとか、そんな立派なものではないんです。たんに「欠席する」という選択肢があることを知らなかっただけなんです。下痢がひどくてもパンツの中に汚物をためこみながらも電車に乗って塾へ行き、平然と授業を受けて帰ってきたこともある塾長です、みなさんこんにちは。
逆に言えば、それほどまでに、学校や塾が楽しかったということでもあります。学校の先生や友達、塾の先生や友達、ほんとうにすばらしい人達に私は恵まれていました。
あるとき、学芸会のクラスの出し物を考える委員会を作るということになり、担任の先生が何人かの生徒を指名しました。すると、その指名された子たちから「先生、ぜひ中村くんにも協力してもらいたいので、メンバーに入れていいですか?」という声があがりました。当時、すでに人並み以上に本と音楽にふれていたこともあって、そういう意味では一目置かれていたようです。もう、これだけで感動ドラマですよね。しかし、私にとって中学受験の辛さを象徴する事件はこの数日後に起こります。
その日は塾の授業がある日でした。放課後、その委員会で打ち合わせをしていると、塾へ行かなければいけない時間になってしまいました。そのまま委員会の仕事をつづけるのか、それとも塾へ行くのか。それは、「クラスメートの信頼と期待」に応えるのか、「親の信頼と期待」に応えるかの二択でもありました。大なり小なり、こうした二択をつきつけられたのが、私にはいちばん辛いことでした。事情を知っているクラスメートたちは、「いいよ、塾に行ってきなよ。中村が大変なのを知っていながらメンバーに入ってもらったのは僕達の方だから。」と、気を利かせてくれました。私は感謝しつつ学校を後ろ髪を引かれる思いであとにしました。
ところが、
私が帰宅して塾に向かったあとそのことを知った担任の先生に、翌日クラスメートたちの前で激怒されます。
「お前はクラスメートたちの信頼と期待を裏切った」
クラスメートたちは私をかばってくれましたが、担任の先生の怒りが収まることはありませんでした。
私は今でもこの担任の先生を尊敬しています。当時のクラスメートたちの多くもそうだと思います。破天荒だったけれども、意欲的で野心的でとても素晴らしい先生でした。だからこそ、自分の心に重く深く響いた言葉でした。先生のおっしゃっていることはまったく間違えていない。けれども、自分の行動と選択も間違っていない。
「正しいこと」が、ひとつではないことを知った瞬間でもありました。
担任の先生は、私を委員会から外し、委員会の活動への参加を禁じました。
その夜のことです。
私の自宅のチャイムが鳴りました。
玄関の扉を開けてみると、委員会のメンバーたちが笑顔でいるではありませんか。
「さぁ、仕事するよ~」
と、言って、どかどかと上がってくるのです。
驚く僕に彼らは言うのです。
「だってさぁ、オレたちだけじゃ無理だもん。ここなら先生にバレないでしょ。ん?なにか?それとも、今度こそ『ほんとうに』オレたちの信頼と期待を裏切るのか?」
今こうして書いていても、これが小学5年生でのできごとだということに我ながら驚きを感じます。
でも、こんなできごとがふつうに何度も起きるミラクルな小学校でした、当時の郷州小学校は。
後日わかることですが、こうした出来事も担任の先生はご存知だったようです。
できあがった演劇のシナリオとBGMに私の匂いを感じたからとも仰っていました。
中学受験の辛さは、「クラス全員が受験をするわけではない」ということから生じる様々な葛藤に子どもたちが立ち向かわなければいけないことだと私は思います。これが他の受験と根本的に違うところなのです。この葛藤をすべての小学生が乗り越えられるかどうか、私にはわかりません。自分のお子様に中学受験をさせるか否かを考えるとき、この点はぜったいに考慮していただきたいと、面談では必ずお伝えするようにしています。
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